2026年9月30日の夕方、オリックス・バファローズが、ルーキーの野上士耀(のがみ・しきら)捕手が亡くなったと発表しました。

19歳、高校を出てプロに入ったばかりの1年目です。

そのわずか3日前の日曜日には、2軍の広島戦に「9番・DH(指名打者)」で出ていたと報じられています。

 

発表のあと、ネットにまず並んだのは「何があったの」という声でした。

けれど夜が深くなるにつれて、流れてくる言葉は少しずつ変わっていきます。

16年前を思い出すオリックスファン、「ドラゴンズの能戸くんの同級生だよね」とつぶやく中日ファン、そして高校時代の恩師の言葉を紹介する野球雑誌の編集部。

今回は、発表のあとに広がったそうした声をたどりながら、野上士耀という19歳がどんな選手だったのかを、わかりやすくまとめていきたいと思います。


3日前も打席に立っていた

球団の発表は、ほんの数行の文面でした。

「当球団所属の野上士耀選手が2026年9月30日(水)、急逝いたしましたので、お知らせいたします」と伝えたうえで、「生前、ファンの皆様から賜りましたご厚情に深く感謝申し上げます」と結ばれています。

その夜7時半からは小浜裕一球団本部長が京セラドーム大阪で取材に応じ、朝からの経緯を説明したとのこと。

「未だに事実を受け入れられない」「本当に残念で仕方ない」と、本部長は憔悴した様子で話していたと伝えられました。

 

報道によると、朝の点呼のときに部屋へ連絡しても応答がなく、午前7時45分ごろ、選手寮の自分の部屋で倒れているところを見つけられたそうです。

そのあと、駆けつけた消防によって死亡が確認されたとのこと。

前の日は全体練習に参加していて、練習のあとも自分からバッティング練習を続けていたそうで、本部長は「元気な姿でグラウンドでやっていたという報告は受けています」と明かしました。

死因について、本部長は「事件性はないと伺っている」と答えています。

ただ、その中身は、ご家族の意向で公表されていません。

発表のあと、ネットには死因をあれこれ詮索する書き込みも出はじめ、それを止めようとする声がオリックスファンから上がりました。

「不謹慎ツイートしてる人ほんまにやめてな」と同じようにお願いするファンもいて、そこへ感謝の言葉を添えた人もいます。

3日前の最終打席の映像を添えて「未来ある有望な若者が」と悼む投稿も、夜にかけて大きく広がりました。

この日予定されていた2軍の阪神との練習試合は取りやめになり、翌日から3日間は、2軍の選手たちの自主練習にあてられるそうです。

「ケアしないといけないですね」と、本部長は残された若い選手たちの心を気にかけていました。

1軍のほうは、今週末の仙台での楽天戦に予定どおり臨むとのこと。


野上士耀のプロフィール

訃報で名前を知った人も多い野上捕手は、どんな道を歩いてきた選手だったのでしょうか。

  • 名前:野上士耀(のがみ・しきら)
  • 生年月日:2007年5月23日(19歳)
  • 出身:愛知県春日井市
  • 身長・体重:170センチ・80キロ
  • ポジション:捕手(右投げ右打ち)
  • 背番号:60
  • 経歴:愛知名港ボーイズ→明秀学園日立高校→オリックス(2025年ドラフト7位)

野上捕手のいちばんの武器は、肩の強さでした。

中学時代の愛知名港ボーイズでは「スーパー中学生」と特集が組まれるほどで、キャッチャーから二塁への送球は1.9秒台を連発し、いちばん速いときで1.78秒を記録していたそうです。

プロの捕手でも2秒を切れば肩が強いと言われる世界なので、中学生のうちにその目安をもう越えていたことになります。

ボーイズリーグの大きな大会「鶴岡一人記念大会」では、中日本選抜のメンバーにも選ばれたそうです。

 

ただ、明秀日立に入ってすぐにマスクをかぶったわけではありませんでした。

打つ力を買われて、下級生のころは捕手の練習を続けながら、外野や三塁、一塁で試合に出ていたそうです。

捕手として本格的に試合に出はじめたのは、2年生の秋から。

当時の自分を、野上捕手は「リードも下調べもせず、直感でリードしている感じでした」と振り返っていて、リード(ピッチャーにどの球を投げさせるかの指示)はまだ手探りだったようです。

それでも1年足らずで、最後の夏には4番・捕手としてチームを甲子園へ連れていきました。

高校で打ったホームランは通算15本で、この長打力と強い肩の両方を評価されて、オリックスから7位で指名されています。

プロ1年目の今季は2軍で32試合に出場し、少しずつ打席と守りの経験を積んでいるところでした。

その半年の変わりようを、スタンドからずっと見ていたファンも。

2月のキャンプでぎこちなかったサインが、9月にはスタメンでマスクをかぶってピッチャーを引っぱる姿に変わっていたそうです。

  • 2019年:小学6年で中日ドラゴンズジュニアに選ばれる
  • 2020年:中学で愛知名港ボーイズに入る
  • 2023年:茨城の明秀学園日立高校へ進む
  • 2024年秋:捕手として試合に出はじめる
  • 2025年7月27日:茨城大会の決勝で藤代に延長10回4-3で勝ち、甲子園出場を決める
  • 2025年8月9日:甲子園の1回戦で聖隷クリストファーに1-5で敗れる(4番・捕手、9回に二塁打)
  • 2025年秋:ドラフト会議でオリックスから7位で指名される
  • 2026年:プロ1年目、2軍で32試合に出場
  • 2026年9月27日:2軍の広島戦に「9番・DH」で出場

野球の選手データを扱うアカウントも、訃報とあわせて、野上捕手が歩いてきたチームの名前を並べています。

地元・春日井の少年野球チームから始まった道のりは、中学、高校と続いて、オリックスのユニフォームまでつながっていたんですね。


16年前を思い出す夜

発表から間もなく、古くからのオリックスファンのあいだで、ひとりの選手の名前が挙がりはじめます。

2010年、チームに在籍したまま亡くなった小瀬浩之(こせ・ひろゆき)選手です。

「オリックスは小瀬の件もあるから、フラッシュバックしてつらい」「16年前を思い出してしまった」という声が、夜のうちにいくつも上がっています。

 

一方で、こう書いたオリックスファンもいました。

小瀬選手の名前を出しながら、こうつづった人もいます。

思い出してしまう人も、「やめてくれ」と書いた人も、16年前のつらさを覚えているところは同じなんですよね。

だから、この記事でも16年前のことをこれ以上くわしく書くのはやめておきます。

野上捕手は、野上捕手として見送りたいからです。


中日ファンが悼んだ理由

同じ夜、中日ドラゴンズのファンのあいだでも、野上捕手の名前が行き交っていました。

訃報をきっかけに、中日ファンのあいだでも野上捕手の経歴がたどられていきます。

オリックスの選手の訃報に、どうして中日ファンがここまで心を寄せたのでしょうか。

春日井市で生まれ、小学6年生のときには中日ドラゴンズジュニアのユニフォームも着た野上捕手は、中日ファンにとって地元の子でもありました。

年末に開かれる12球団ジュニアトーナメントのために、それぞれの球団が地元の小学生から選ぶチームで、愛知の野球少年にとってはひとつの勲章のようなもの。

 

そして、茨城の明秀学園日立高校(明秀日立)で3年間を一緒に過ごしたのが、いま中日にいる能戸輝夢(のと・きらむ)外野手でした。

二人は同級生で、2025年秋のドラフトで、そろってプロの世界に入った間柄です。

この年の明秀日立からは4人がプロに指名されていて、能戸外野手は中日からドラフト4位、野上捕手はオリックスからドラフト7位で指名されました。

能戸外野手は今年の夏、若手選手が出場するフレッシュオールスターのメンバーにも選ばれています。

同じ高校から出た二人が、セ・リーグとパ・リーグに分かれて歩きはじめたばかりだったんです。

この投稿の「ドラゴンズファンとしては理解している」には、中日ファンにしか分からない重さがあります。

 

2021年、中日は現役の木下雄介投手を27歳で亡くしました。

2軍が主な舞台の育成選手として入団してから、1軍にも出られる支配下選手へはい上がり、その年は右肩のけがからの復活を目指していた最中だったそうです。

その夏、ナゴヤ球場の練習中に倒れ、意識が戻らないまま亡くなっていて、そのときも死因は公表されていません。

それでもその後、木下雄介投手の球を受けていた木下拓哉捕手(名字は同じですが、親戚ではありません)は、ミットに「雄介」と書いて試合に出たと報じられています。

理由が分からないままでも、ひとりの選手を覚えておく方法はある。

「勇姿を忘れないであげてくれ」と書いた中日ファンは、そのことを5年前に知っていたんです。


迷わず三塁へ投げた捕手

野上捕手が茨城の明秀日立を選んだときに話した理由は、「金沢監督のもとで、野球を通して人間性を学びたい」だったといいます。

いくつもの強い高校から声がかかる中で、野球の腕より先に「人間性」を口にしていたわけですね。

明秀日立の金沢成奉監督は、野上捕手が入学してくる前から「今度、ええキャッチャーが入ってくるんですよ」「野球センスは田村龍弘よりはるかに上」と話していたそうです。

田村龍弘捕手は、監督が青森の光星学院で教え、のちにロッテに入った選手で、それだけ期待が大きかったということ。

 

ただ、入ってきたころの野上捕手は「お山の大将」で、他の人への思いやりに欠けていたと、監督はかなり率直に振り返っています。

何度も注意を重ねて、ようやく「我が消え、他者への思いやりが出てきた」と。

別のインタビューでも、監督は「彼にはとにかく時間がかかりました」と話し、教え込みたい技術はまだ残っていたとまで打ち明けています。

その心配を、いまも覚えている野球ファンがいました。

厳しく叱り続けた監督のことを、野上捕手のほうは「父みたいな存在」と慕っていた。

高校時代の野上捕手は、試合のあとにノートをつける習慣を身につけて、ピッチャーとの話し方も少しずつ変わっていったそうです。

 

監督がはっきり手ごたえを感じたのは、3年生だった2025年夏の茨城大会の決勝、藤代高校との試合でした。

ノーアウトで一塁と二塁にランナーがいて、相手はバントでボールを転がしてきます。

ふつうの捕手なら、確実な一塁へ投げてアウトを1つ取るところ。

そこを野上捕手は、迷わず三塁へ投げて、二塁から走ってきたランナーを紙一重でアウトにしたそうです。

三塁でアウトにすれば、ホームまであと一歩のランナーを消せますが、少しでも遅れれば誰もアウトにできない、怖い選択でした。

「野上以外の捕手なら、間違いなく一塁への送球を選んだはずです」と監督は語っていて、その一球で甲子園への出場を確信したといいます。

 

実際にその夏、明秀日立は甲子園に出場しました。

ただ、甲子園では静岡の聖隷クリストファーに敗れて、初戦で姿を消しています。

それでも野上捕手は、最後の打席で2年生投手の速い球をレフトの頭を越える二塁打にしました。

試合のあと、「相手は2年生投手なので負けてたまるかという気持ちでした」と話していたそうです。

自分のリードについては「自分は単純な性格なので」と前置きして、場面に合わせた組み立てができていなかったと、正直に振り返っていました。

訃報のあと、野球雑誌『野球太郎』の編集部は、ドラフトの特集号で取材した金沢監督のこんな言葉を紹介しています。

「腹は立つけれど、かわいいところもある子なんです」。


背番号60を名前の横に

夜が更けるにつれて、ネットには、自分なりに野上捕手を覚えておこうとする声が増えていきました。

この方は、ネットで使っている自分の名前の横に、野上捕手の背番号60を添えて、今年いっぱいを過ごすと決めたそうです。

ミットに「雄介」と書いた木下拓哉捕手と、同じ覚え方ですね。

 

ほかにも、野上捕手を思う言葉がいくつも並んでいます。

  • 「明るい明るい子だよね?」と、生前の姿を思い出すオリックスファン
  • 「一軍で躍動してるのを見たかった」と書き、職場で涙が止まらなかったというファン
  • 「いっぱい活躍して野上くんの名前が話題になるはずだったのに」とつづるファン
  • 交流戦で野上捕手と能戸外野手が対戦する日を楽しみにしていた中日ファン
  • 「主力になって野上の分まで頑張れ」と、能戸外野手へ言葉をかける中日ファン

チームの中での姿を、こう覚えていたファンも。

「柊那くん」は、オリックスの2年先輩の捕手・堀柊那のこと。

寮で暮らす若い選手たちの心のケアもお願いします、と球団に呼びかける声も出ていました。

寮には、野上捕手と同じように高校を出たばかりの選手もたくさん暮らしているからです。

迷わず三塁へ投げたという野上捕手の姿を、一度でいいからこの目で見てみたかったと思うと、胸が痛くてなりません。

野上士耀さんのご冥福をお祈りいたします。