「すべての子どもたちが分けられることなく、子どもたち自身が自分の居場所を選べる世の中になってほしい」

今年の24時間テレビでチャリティーランナーを務めた星野真里さんが、7月の取材でそう話していました。

そして8月29日の夜。

その星野さんが娘さんの学校での様子を涙ながらに語ったところ、タイムラインが真っ二つに割れます。

「配慮してほしいなら支援学校へ行くべきでは」「かわいそうなのは学校のほう」。

いっぽうで「案の定こうなると思った」と、悲しんでいる人もいました。

今回は、あの数分で何が語られたのかを整理しながら、通常学級・特別支援学級・特別支援学校がそもそもどう違うのか、そしてなぜあの教室にいちばん後ろの席が生まれたのかまで、わかりやすく解説していきますね。


教室のいちばん後ろで起きていたこと

まず、番組を見ていない人のために、確かめられることから並べてみましょう。

『24時間テレビ49』が放送されたのは、2026年8月29日と30日。

今年のチャリティーランナーは、俳優の星野真里さんです。

星野さんの長女は11歳。

2歳のときに先天性ミオパチーと診断されたことを、本人が公表しています。

生まれつき筋肉の力が弱くなる、国の指定難病。

4歳から電動車いすで生活し、呼吸を助ける機器を使いながら学校へ通っているとのことです。

この夏には大きな手術にも臨んでいて、母娘そろって踏ん張る夏になっていました。

今年の目的別募金の名前は、「できた!を増やす子ども募金」。

 

その放送の中で、星野さんが娘さんの学校の話をしました。

ここは大事なところなので、先に断っておきますね。

日本テレビによる書き起こしも、新聞やスポーツ紙の報道も、この記事を書いている時点では出ていません。

これから並べるのは、番組を見ていた人たちの投稿を突き合わせて、共通している部分だけを取り出したものです。

 

娘さんは特別支援学級に在籍しながら、決まった授業だけを通常学級で受けていました。

1年生の終わりの授業参観へ行ってみると、娘さんの席は教室のいちばん後ろ。

先生からの声かけも補助もないまま、ぽつんと座っていたそうです。

それを見てショックを受け、学校に伝えたところ、みんなと同じように参加させてもらえるようになった、とのこと。

おおまかには、こういう話でした。

放送が終わるころには、この話を学校の先生たちの側が引き取っていきます。

教える側から返ってきたのが、この「しんどい」という一語でした。

母親の涙と、先生の疲れ。

どちらも本物なのに、正面からぶつかってしまいました。

だからこの回は、こんなに後味が悪いんです。


支援学級に在籍したまま通常学級へ

ここでいちばん取り違えられたのが、娘さんがどこに在籍しているのか、でした。

批判の多くは「通常学級に入れたのに、あれこれ配慮を求めている」という形をしています。

ところが語られていたのは、そうではありませんでした。

まずは、子どもが学ぶ場所の名前を4つだけ整理しておきます。

  • 通常の学級……いわゆる普通のクラス。1クラス30人台のことが多い
  • 通級による指導……ふだんは通常の学級にいて、週に数時間だけ別の教室へ通う形
  • 特別支援学級……同じ小中学校の中にある少人数のクラス。1クラス8人が標準
  • 特別支援学校……障害のある子のための、別の学校。小中学部は1クラス6人、障害が重なる場合は3人が標準

そして、もうひとつ大事な言葉。

「交流及び共同学習」という仕組みです。

特別支援学級に在籍している子が、音楽や図工、給食、行事などの時間だけ通常の学級へ行って、一緒に過ごす。

学習指導要領にも書かれている、正式な学びの形。

 

つまり娘さんが座っていたのは、通常学級の自分の席ではありません。

交流の時間だけ、そこにある席でした。

同じことを、番組を見ていた人がきちんと書き留めています。

ここにある「親の一存では決められない」も、そのとおりなんです。

2013年に学校教育法施行令が改正されて、就学先の決め方が変わりました。

それまでは、一定の障害がある子は特別支援学校へ、というのが原則。

いまは、障害の状態・本人の教育的なニーズ・本人と保護者の意見・専門家の意見・学校や地域の状況を合わせて考える形になっています。

そのうえで本人と保護者の意見を最大限に尊重して合意をつくり、最終的には市町村の教育委員会が決める、という手順です。

お母さんが自分ひとりで決めて放り込んだ、という話ではありませんでした。


国が4年前に引いた半分という線

では、なぜその交流の時間に、誰も声をかけてくれなかったのか。

ここから先が、この件のいちばん奥だと思っています。

2022年4月27日、文部科学省が全国の教育委員会へ1本の通知を出しました。

特別支援学級に在籍している子については、原則として週の授業時数の半分以上を目安に、特別支援学級で授業を。

いわゆる「4・27通知」と呼ばれているものです。

背景には、その前の年に行われた実態調査がありました。

特別支援学級の在籍率が高い10の都道府県・政令市を調べたところ、在籍したまま授業の半分以上を通常学級で受けている子が、小学校でも中学校でもおよそ5割。

しかも自治体によってばらつきが大きく、97%という土地もあれば、3%しかない土地もあったとのこと。

支援学級に籍はあるのに、そこでの指導がほとんど届いていない子がいました。

それを整えるための通知だったわけです。

 

さて、この通知が何を決めて、何を決めなかったのかを見てみます。

国が線を引いたのは、どれだけの時間なら通常学級で過ごしてよいかのほうでした。

決めなかったのが、その時間、誰がその子の担任なのかです。

支援学級の先生には、自分のクラスの授業があります。

通常学級の先生の前には、30人以上の子。

交流の時間は、どちらの先生にとっても「自分が受け持っている授業」の外側へはみ出してしまう。

時間割の上ではちゃんと存在しているのに、その時間の責任者だけが空欄になっているようなものです。

 

あの授業参観でお母さんが見たのは、たぶん冷たさではありません。

誰の受け持ちでもない45分に、娘さんが一人で座っていた——それが、教室のいちばん後ろという席の正体だったのだと思います。

同じことに、教育の現場を知っている人はすぐ気づいていました。

ここに出てくる「加配」は、決まった数より先生を上乗せして配置すること。

体の不自由な子のための支援学級を作れば、その加配がついたはずだ、という指摘です。

子どもを介助したり見守ったりする「特別支援教育支援員」を置くための費用も、2007年度から国の財政措置として用意されています。

やる気の話ではなく、人の配り方の話。

そこが動いていなければ、いま教室にいる先生が全部を抱えるしかありません。


合理的配慮は要求ではなく話し合い

批判の中でいちばん数が多かったのは、この言葉をめぐるものでした。

合理的配慮というのは、障害者差別解消法という法律の言葉です。

公立の学校や教育委員会は2016年4月から、私立学校をふくむ民間の事業者は2024年4月から、これを行うことが義務になりました。

言葉が固いので、中身を2つだけ。

  • 相手にとって「過重な負担」になる場合は、そこまでしなくてよい
  • 断って終わりにせず、できること・できないこと・代わりの方法を出し合う。これを建設的対話と呼ぶ

つまり何を言っても通る制度ではないし、言った側が悪者になる制度でもありません。

困っていることを伝えるところから始めてください、と法律のほうが書いてあるわけです。

 

そう考えると、お母さんが学校に伝えたこと自体は、制度が想定している動きでした。

学校が「そこまでは手が回りません」と答えることも、同じく制度の中にあります。

どちらか片方が間違っていた、という話ではないんですね。

引っかかるのは、そこではありません。

その話し合いが、授業参観の日まで一度も起きていなかった1年間のほうです。

入学のときには、就学先を決める話し合いがあったはず。

けれど入ったあと、交流の時間に何が起きているかを、誰も家庭へ伝えていませんでした。

建設的対話は入口で1回やって終わる手続きだと、みんなが思い込んでいたのかもしれません。


分けるなという勧告と、分けよという通知

ここまで読んで、結局どちらが正しいの、と思われた方もいると思います。

けれど日本はいま、正反対を向いた2本の矢印の真ん中に立っているんです。

 

ひとつは、さきほどの4・27通知。

週の半分以上は支援学級で、という向きです。

もうひとつは、その4か月後に届きました。

2022年9月、国連の障害者権利委員会が日本政府に対して、障害のある子を分けて教える特別支援教育をやめるよう勧告しています。

普通学級への就学を拒まないこと、普通学級で学ぶ場合には合理的配慮を保障すること。

そのうえで、4・27通知を撤回するようにも求めました。

国内でも、2024年3月22日に大阪弁護士会が同じ通知の一部撤回を勧告しています。

週の半分以上を障害のない子から分けられた状態で過ごすよう求めるもので、インクルーシブ教育の理念に反する、という理由でした。

 

インクルーシブ教育というのは、障害のある子とない子が同じ場所で一緒に学ぶ、という考え方。

欧米では広く根づいていて、日本もその条約に入っています。

それでも特別支援学級の在籍者は、2022年度から2023年度のわずか1年で、35万3438人から37万2795人へ。

子どもの数そのものは減っているのに、分けられた場所にいる子は増え続けているというわけです。

 

星野さんが番組で語った「分けないでほしい」は、国連の勧告とぴったり同じ向きを向いています。

「無理なものは無理だ」という批判のほうは、文科省の通知とぴったり同じ向き。

どちらも、日本という国が同時に持っている言い分。

その板挟みを、親と担任が生身で引き受けさせられている格好です。

壁というのは、ぶつかった人にしか見えません。

あの授業参観の日に、お母さんが初めて手で触れたのが、その壁。


足りないのは気持ちではなく人手

今回いちばん静かで、いちばん本当だったと感じた投稿を置いておきます。

「受け入れ側の学校も、当事者にしかわからない」。

この一行は、痛いところを突いています。

障害のある子の親が「当事者にしかわからない」と言うのと、そっくり同じ形で、担任の先生も言えてしまう。

同じ教室の中で、二人とも孤立していたわけです。

 

そして、二つの「わからない」は、たどっていくと同じところで行き止まります。

その教室に、大人が一人しかいなかった。

電動車いすを動かす手伝いも、呼吸を助ける機器の見守りも、授業の進み具合に合わせた声かけも、全部その一人にぶら下がっています。

そこへ「みんなと同じに」と言われれば、しんどいという言葉が出るのも当たり前でしょう。

逆に、大人がもう一人いれば、あの後ろの席は空席のままで済んだはず。

気持ちの問題に見えていたものが、実は椅子と人件費の問題へ変わっていく。

これって、けっこうよくある話なんです。

 

家庭に置き換えても同じですね。

子どもが二人いて、片方が熱を出した日に大人が一人しかいなければ、もう片方は必ず後回しになります。

そのとき後回しにした親を責めても、熱は下がりません。

足りなかったのは愛情ではなく、その日の手の数。

教室で起きていたのも、規模を大きくしただけの、それと同じことだったのだと思います。

 

番組で語られたあの数分は、たしかに学校を責めているように聞こえた——そういう批判は、その通りだったのかもしれません。

ただ、あの教室のいちばん後ろに席を用意したのは、担任の先生でもなければ、お母さんでもありませんでした。

私たちは責める相手を、ひとつ手前で取り違えていたのかもしれませんね。

24時間テレビ募金の「ホビ垢vs北斗」とは?松村北斗さんの「あっ……」をわかりやすく解説
24時間テレビ募金の「ホビ垢vs北斗」とは?松村北斗さんの「あっ……」をわかりやすく解説土曜の夜、テレビをつけたまま洗い物をしていた人も多かったと思います。 画面に映っていたのは、黄色い募金箱がずらりと並んだ会場でした。 そ...