美術館の入口で、この一文を見たことがあると思います。

「館内での写真撮影はご遠慮ください」。

絵の前に立って、きれいだなと思って、スマホを出しかけて、そっと戻す。

あの数秒の気まずさ、なかなか忘れられません。

 

ところが不思議なことに、その同じ美術館の出口では、さっき撮れなかった絵が表紙になった図録が売られています。

ポストカードにもなって、レジの横に山積み。

画集にも載っているし、原寸大の複製が別の場所に展示されていることさえあります。

撮ってはいけないはずの絵が、どうしてあんなにきれいな写真になって並んでいるのか。

先に結論だけ言ってしまうと、あの札は「写すな」ではなく「勝手には写すな」の札なんです。

今回は、美術館の撮影禁止がそもそも何を止めているのかを、はじめての方にもわかるように順番に解説していきますね。

撮影禁止の札が守っているもの

まず、なぜ止められているのかから見ていきます。

理由はひとつではありません。

大きく分けると三つあって、これがごちゃまぜになっているせいで、話がわかりにくくなっています。

  • 作品そのものを守るため(光とフラッシュの熱)
  • 権利を守るため(著作権と、貸してくれた人との約束)
  • その場を守るため(混雑・立ち止まり・他のお客さんの写り込み)

ひとつめから見てみましょう。

フラッシュの光には紫外線が含まれていて、絵の具の色を少しずつ褪せさせてしまうそうです。

しかも一瞬とはいえ熱も出るので、漆器や木でできたものだと、表面がひび割れる心配まで出てきます。

そもそも展示室の照明が暗めなのも、同じ理由から。

浮世絵や水彩、染めや織りのものは、とくに光に弱い。

一度褪せた色は、二度と戻りません。

 

だから、光に弱い作品を表に出せるのは、一年のうちのわずかな期間だけ。

展覧会の途中で中身が入れ替わる「展示替え」も、じつは模様替えではなく、作品が浴びる光の量を配分するための仕組みだったりします。

せっかく行ったのにお目当てが出ていなかった、というあの残念さの裏には、たいていこの事情。

 

三つめの「その場を守る」は、もっと身近です。

ひとりが立ち止まると、そのうしろが詰まります。

知らない人の顔が写り込むことも。

ここまで徹底している館もあります。

建物の外から中を撮るのもだめ、というのは、作品の傷みの話ではありません。

来た人に、画面ごしではない時間を過ごしてほしい、というほうの理由。

同じ「撮影禁止」でも、守りたいものはこれだけ違うわけです。


止めているのは著作権とはかぎりません

ここで、多くの人がつまずくところに入ります。

「撮影禁止なのは著作権があるからでしょう」。

半分は当たりで、半分は外れなんです。

 

日本の著作権は、いま、作者が亡くなってから七十年で切れる決まり。

つまりルネサンスの画家も、江戸の絵師も、印象派の画家も、著作権はとっくに切れています。

誰のものでもない、みんなのもの。

専門的にはパブリックドメインと呼ばれる状態です。

ではなぜ、その古い絵の前にも撮影禁止の札が立っているのでしょうか。

 

ヒントは、昔の最高裁の判断にあります。

著作権が消えたあと、その権利が作品を持っている人のところへ移ってくるわけではない、という考え方が示されているんです。

絵を持っていることと、絵の姿を独り占めできることは、べつの話。

だから美術館は「絵の持ち主だから撮るな」とは言えません。

 

そこで効いてくるのが、建物を管理している側の権限です。

チケットを買って中に入るとき、私たちは「ここのルールに従います」という約束をしています。

撮影禁止は、その約束のひとつ。

つまりあの札は、法律の条文というより入口で交わした約束ごとに近いものなんですね。

 

では、その約束を破ってしまうとどうなるのでしょうか。

たいていは、係の方に声をかけられて、消してくださいとお願いされます。

悪気がなければ、そこで終わり。

ややこしい話になるのは、撮ったものを売ったり、無断でグッズにしたりした場合のほうです。

つまりあの札は、罰するための決まりというより、みんなで気持ちよく過ごすための線引きに近いものだったりします。

作った本人が「どうぞ」と言っていても、館の判断で禁止になる場合も。

逆に、作者が渋っていれば、館がどれだけ見せたくても撮影可にはできません。

撮れるか撮れないかは、絵そのものの性質ではなく、その絵に関わっている人たちの合意で決まっています。

同じ展覧会でも撮れる絵と撮れない絵がある

この「合意で決まる」がいちばん見える形で出てくるのが、あの現象です。

同じ展覧会の、同じ部屋なのに、この絵は撮ってよくて、隣の絵はだめ。

種明かしをすると、展覧会に並んでいる作品のほとんどは、その美術館のものではありません。

海外の美術館から、国内の別の館から、あるいは個人のコレクターから、会期のあいだだけ借りてきたもの。

そして貸すときの条件は、貸す側が決めます。

撮影を許すかどうかも、その条件のひとつ。

 

借りる側は、輸送や保険の手配とあわせて、この条件をひとつずつ詰めていきます。

照明をどこまで明るくしてよいか、何日まで並べてよいか、そして撮影を許すかどうか。

大きな展覧会になると、この交渉だけで何年もかかることがあるそうです。

 

だから、方針のちがう相手から集めてきた作品が一部屋に並ぶと、可と不可がまだらになります。

「この作品のみ撮影可」という札は、意地悪でも思いつきでもありません。

あれは、貸してくれた人との約束がそのまま壁に貼り出されたものなんです。

絵の値打ちの順でも、古さの順でもなく。

誰と誰のあいだで交わされた約束かの、ちがいだけ。

そう思って見ると、あのまだらな札が急に人間くさく見えてきます。


撮れないはずの絵が図録や複製になるまで

さて、いちばんの疑問に戻りましょう。

撮影禁止のはずの絵が、どうやってあの分厚い図録の写真になっているのか。

 

答えはあっけないほど単純で、正面から頼んで、許してもらっているからです。

入口の札が止めているのは、来館した人が自由に撮ることであって、撮影そのものではありません。

出版社や美術館が本や複製をつくるときは、来館者としてではなく、申請する側として持ち主に頼みます。

どこに使うのか、何のためか、どのくらいの期間か。

それを書いて出して、許可が下りてはじめて、閉館後の展示室に専用の照明と機材が運び込まれるわけです。

 

持ち主のほうがすでに高精細のデータを持っていて、それを貸してもらう形もよくあります。

いわゆるデジタルアーカイブ。

そして、ここが意外と知られていないところ。

著作権が切れている古い絵であっても、お金がかかることがあります。

絵の権利にではなく、撮影とデータづくりにかかった手間に対して支払う、という考え方です。

学芸員の方の説明が、そのまま答えになっています。

使ってよいのは、この本に、この期間、この部数まで。

だから展覧会が終わったあと、図録がなかなか増刷されないんですね。

紙とインクの問題ではなく、許可の有効期限が切れているからです。

 

ちなみにこの流れは、いま制度の側からも後押しされています。

二〇二二年に博物館法が改められて、所蔵している資料をデジタルの形で記録して残していくことが、博物館の仕事のひとつとして法律に書き込まれました。

きちんと撮って、データにして、使えるようにしておく。

それ自体が館の役目だと、国が決めたわけです。

実際、海外の大きな美術館では、著作権の切れた作品の高精細な画像を、条件さえ満たせば申請なしで使えるように公開しているところが増えています。

家のパソコンで、絵の具の盛り上がりが見えるところまで拡大できてしまう。

撮影禁止の札と、この気前のよさが同じ建物のなかに同居しているのが、いまの美術館です。

 

そう考えると、複製の見え方も変わってきます。

原寸大で再現された作品や、精巧な複製画。

あれは誰かがこっそり撮ってきたものではなく、何年もかけて頼んで、許されて、撮らせてもらった結果です。

入場者の撮影禁止と、正式な複製の存在は、まったく矛盾していません。

禁じられているのは撮ることではなく、順番を飛ばすことだからです。

撮ってよい日に気をつけたいこと

最近は、撮影できる展覧会がずいぶん増えました。

せっかくなので、迷いやすいところを整理しておきますね。

  • 撮影可でも、フラッシュ・動画・三脚・自撮り棒は別に禁じられていることが多い
  • 「撮ってよい」と「ネットに載せてよい」は、べつの許可
  • 他のお客さんの顔が入ったら、その人の許可がいると考える
  • 吹き抜けやロビーも「館内」あつかいのことがある
  • 作品に近づきすぎない。前の人を待たせない
  • 迷ったら受付で聞くのがいちばん早い

ふたつめが、いちばん見落とされるところ。

撮影可と書いてあっても、投稿は不可という展覧会がふつうにあります。

作品を貸した人が、そこまでは許していないという場合ですね。

会場の入口か、公式サイトの注意書きに、たいてい小さく添えてあるはずです。

この声も、わかる気がします。

撮影可の会場が混んでくると、絵の前がスマホの列になることがありますから。

ただ、撮ることが悪いというより、絵の前に立つ時間より短くならないこと、なのだと思います。

一枚撮ったら、スマホを下げて、もう一度その絵を見る。

それだけで、たぶん誰も困りません。

 

撮影禁止の札を見ると、やっぱり少し寂しい。

でもあの札の裏側には、貸した人と借りた人が交わした約束や、色を褪せさせたくないという願いが積み重なっています。

そして図録や複製のほうに残っているのは、誰かがきちんと頼んで、許してもらった跡。

次にあの一文を見かけたら、そんな順番のことを思い出してもらえたらうれしいです。