2026年9月2日の朝、滋賀県近江八幡市の住宅で、49歳の男性が首をハサミで刺されました。

警察に通報したのは、同じ家にいた17歳の娘さんです。

「父親とけんかになって、はさみがのどに刺さった」

男性は病院へ運ばれましたが、その後、死亡が確認されました。

 

その日の午後に流れた見出しは、「殺人未遂の疑いで17歳逮捕 父親死亡」。

亡くなっているのに、未遂。

この並びに引っかかった人は多かったようで、「未遂で終わっとらんがな」という短い言葉がいくつも流れていました。

 

この引っかかりには、ちゃんとした理由があります。

そして理由が分かると、この事件がそのあとどこへ動いたのかも、続けて見えてくるはずです。


朝7時半前に何があったのか

報じられている事実は、まだそれほど多くありません。

現場は近江八幡市の住宅で、時刻は9月2日の午前7時20分ごろ。

ちょうど家族が出かける支度をしている時間帯です。

 

亡くなったのは、この家に住む49歳の地方公務員の男性でした。

搬送先の病院で、死亡が確認されています。

使われたのは長さ約20センチの裁ちばさみのようなものとみられているそうです。

殺人未遂の疑いで現行犯逮捕されたのは、17歳の女子高校生でした。

警察へ通報したのは本人で、取り調べに対しては「刺さったことは間違いないが、わざと刺したわけではない」と話し、容疑を一部否認していると報じられています。

この家は両親ときょうだいを含む5人暮らしで、事件のとき、ほかの家族も自宅にいたそうです。

そして翌9月3日、容疑は殺人へ切り替えられました。

送検されたのは、高校2年の女子生徒。

分かっているのは、ここまでです。

けんかの中身も、ハサミがどういう動きで首に届いたのかも、まだ何ひとつ出ていません。


亡くなっているのに未遂と呼ばれる理由

いちばん多く聞かれた疑問から片づけます。

答えを先に書くと、逮捕された時点では、お父さんはまだ生きていたからです。

 

今回は現行犯逮捕でした。

警察官が家に着いて、その場で身柄を押さえた段階では、お父さんは救急車で運ばれている最中です。

命がある人を刺したとなれば、その瞬間に付く容疑は「殺人未遂」しかありません。

死亡が確認されたのは、そのあとのことでした。

 

逮捕の容疑名というのは、逮捕したその時点の事実に付けられる札のようなものです。

あとから状況が変われば、札も書き換えられます。

実際、逮捕の翌日には殺人へ書き換えられました。

 

だから、この事件が「未遂のまま終わる」ことはありません。

9月2日の見出しが未遂で止まっていたのは、書類の上の呼び名がまだ書き換わっていなかった、というだけの話です。

書き換えの前に入るのが、亡くなった原因を確かめる作業。

司法解剖で傷と死因が結びついたあとでないと、罪名は動かせないからです。

 

ちなみに、亡くなったあとも「未遂」の文字が残ることについては、遺族がつらい思いをすると以前から言われてきました。

それでも書き換えないのは、逮捕の瞬間をあとから塗り替えてしまうと、警察がその時点で何を根拠に人を捕まえたのかが分からなくなるからです。


殺人と傷害致死を分ける一点

では、切り替わったあとの罪名は何になるのか。

ここから先が、この事件のいちばん長い争点でしょう。

 

候補は大きく二つあります。

殺人か、傷害致死かです。

人が亡くなった事実はどちらも同じで、違うのは本人に殺意があったかどうかという一点だけ。

ヤフーニュースのコメント欄では、弁護士の山岸久朗さんがこの点を解説していました。

裁ちばさみであること、そして刺さった場所が喉であることは、殺意を認めやすい材料になる。

逆に、女子高校生で非力であるといった事情があれば、殺意は否定されて傷害致死での起訴になることも多い、という内容です。

 

本人が話しているのは「刺さったことは間違いないが、わざと刺したわけではない」でした。

この言い分が通るかどうかは、けんかがどんな形だったのか次第です。

もみ合った拍子に当たったのか、それとも手に持って向けたのか。

同じ「刺さった」でも、この二つはまるで別の話でしょう。

 

その点について、続報で供述の中身が少しだけ具体的になりました。

もみ合いになったときに、手にしていたハサミが刺さった、という話だそうです。

二つのうちのどちらか、ではありませんでした。

もみ合いだったとは言い、それでもハサミは自分の手にあったと認めている形。

ただ、これを外から決めるための材料は、今のところ誰も持っていません。

裁ちばさみが最初からその部屋にあったのか、あとから手に取ったのか。

その一点だけでも、話の色はまるっきり変わってしまいます。


「刺さった」と「刺した」のあいだ

供述の中で、いちばん引っかかるのはこの一語でしょうか。

本人が言っているのは「刺さった」でした。

「刺した」ではありません。

ニュースの下では、そこで立ち止まった人がとても多くいたのです。

「刺さったのではなく刺したの間違いでしょうに」

「とんでもなく鋭利なハサミでない限り、もみ合った拍子に刺さるものじゃない」

 

この違和感は、言葉の作りから出ています。

「刺さった」は、ハサミが勝手に動いたように聞こえる言い方。

誰の手がどう動いたのかが、文の中から消えてしまうのです。

同じ出来事でも、「刺した」に変えたとたん、動かした人が戻ってきます。

 

ただ、本人が受け身で話している理由は、うまく逃げるためだけとは限らないはずです。

自分の手が何をしたのかを、まだ引き受けられていないだけなのかもしれません。

どちらなのかは、これからの調べで分かってきます。

そして、司法解剖の結果がこの争いの真ん中に置かれました。

お父さんの首に残っていたのは、裁ちばさみで刺したとみられる傷が1カ所。

回数という物差しだけを見れば、この1という数字は本人の言い分の側に立ちます。

同じ2週間のうちに横浜で起きた、上半身を複数回という事件(19歳の娘を刺した70歳の父…「殺すつもりはなかった」が引っかかる理由)とは、ここが決定的に違うところ。

ただ、物差しはもう一本ありました。

どこを、どれくらい深く。

刺さったのは喉で、死因は失血死と発表されています。

浅く当たっただけではなかった、ということです。

 

ニュースの下で、いちばん正確に言い当てていたのはこの一行だと思います。

「殺すつもりはなかっただろうけど刺したろとは思って首元をめがけて」

じつは、これが傷害致死という罪の中身そのものなのです。

殺すつもりはなかった、でも傷つけるつもりはあった、そのうえで人が亡くなった場合を指します。

法律が引いている線と同じところへ、もう手が届いていたことになるのです。


17歳だから軽くなるのか

もうひとつ多かったのが、少年法をめぐる心配でした。

「17歳だと無罪になるのでは」という声もありましたが、これは起こりません。

 

未成年の事件は、まず家庭裁判所へ送られます。

ここまでは大人と違うところです。

ただ少年法には、そこから先を大きく折り返す条文が置かれているのです。

第20条の2項に、故意の犯罪行為で被害者を死亡させた罪で、犯行時に16歳以上だった少年は、原則として検察官へ送らなければならないと書かれています。

いわゆる原則逆送と呼ばれるもので、送られた先は大人と同じ刑事裁判です。

殺人でも傷害致死でも、どちらも「故意の犯罪行為で被害者を死亡させた罪」に当たります。

つまり罪名がどちらに転んでも、17歳という年齢だけを理由に手続きが軽くなる道は、ほぼ塞がれた状態です。

条文には「刑事処分以外の措置が相当と認められるときはこの限りでない」という但し書きもありますが、これは調査を尽くしたうえでの例外で、はじめから用意されている逃げ道ではありません。

 

反対に、本人の「わざとではない」がそのまま通って、故意そのものが認められない結論になれば、この原則からは外れていきます。

殺意があったかどうかで、家庭裁判所で終わるのか、大人と同じ法廷に立つのかが変わってくるわけです。

 

それと、名前も顔も出てこないことを不満に感じた人がいました。

これも同じ法律で決まっていて、第61条が本人だと分かるような記事や写真を新聞や雑誌に載せることを禁じています。

17歳の女子高校生、という書き方までしか出てこないのは、報道する側が気をつかっているからではありません。

そう書くことしか許されていない、というほうが正確です。

事件が伝わった日、ネットの反応を眺めていると、この子をかばう声のほうが目立っていました。

虐待があったのではないか、追いつめられていたのではないか、と。

そう思う気持ちは、私にもよく分かるのです。

 

ただ、供述の中身が出たあとのコメント欄では、上に来る声が入れ替わっていました。

いま多く読まれているのは、「もみ合いで刺さるものだろうか」という側です。

どちらかが正しくて、どちらかが間違っているという話ではありません。

材料が1つ増えるたびに、読む側の見方も動いている、というだけのこと。

それでも、かばいたくなった気持ちのほうは、先に消さずに持っておきましょう。


背景を調べてほしいという願いについて

コメント欄でいちばん共感を集めていたのは、この子を責める言葉ではありませんでした。

今の段階では決めつけられない、親子の間に何があったのかをきちんと調べてほしい。

そういう声です。

普段の二人の関係によるよね、と書いた人がいました。

父親が日常的に暴力をふるう人だった場合と、子どもの側が感情を抑えられない人だった場合とでは、天と地の差がある、と。

自分の父親のことを思い出してしまった、と打ち明けている人もいました。

 

この願いについては、少しだけ安心できる話があります。

背景を調べる作業は、大人の刑事事件よりも、少年事件のほうがはるかに手厚いのです。

 

家庭裁判所には調査官という専門の職員がいて、本人と何度も面接し、生い立ち、家庭の空気、学校での様子、友人関係まで聞き取っていくそうです。

家族にも会いに行きます。

大人の裁判が「何をしたか」を確かめる場なのに対して、少年事件では「なぜそうなったのか」を調べないと次の判断ができない仕組みになっているからです。

 

この間、本人は少年鑑別所というところで数週間を過ごすのが一般的です。

心理の専門職が面接や検査を重ねて、性格や生活の背景を見ていく施設で、罰を与える場所ではありません。

刑務所のような場面を思い浮かべていた人は、ここだけでも印象が変わるかもしれませんね。

 

そしてこの調査の記録は、原則逆送で刑事裁判へ進んだあとも引き継がれていきます。

裁判で情状を判断するときの土台になる資料です。

 

やったことの重さを量ることと、その人がどうしてそこへ行き着いたのかを見ることは、別々の作業として置かれています。

後ろのほうに手間をかけるのは、前を軽くするためではありません。

 

だから「ちゃんと調べてほしい」という願いは、私たちが騒がなくても、すでに手続きの中に組み込まれています。

ただ、ひとつだけ切ないことがあって。

その調査でどれだけ深いものが出てきたとしても、中身が私たちのところへ流れてくることは、まずありません。

少年事件の記録は公開されないからです。

亡くなったお父さんについて、こう書いている人がいました。

32歳のときの子だろう、きっと可愛がっていたはずだ、と。

これも今の時点では想像でしかないのですが、49歳という年齢と、朝の時間に家にいたという事実だけが、静かに残りました。


決めないままでいるということ

この手のニュースが流れると、数時間のうちに二つの決めつけが出てきます。

「親を手にかけるなんてありえない」という側。

そして「どうせ虐待があったに決まっている」という側。

 

どちらの言葉にも、その人が生きてきた時間が乗っています。

だから止めようとは思いません。

ただ、いまも分かっていないことのほうが、ずっと多いままです。

けんかの理由は出ていません。

裁ちばさみがどこにあったのかも出ていません。

普段の親子がどんなふうだったのかも、まだ誰も知らないままです。

 

分かったことのほうも、ひとつ書いておきます。

この家には両親ときょうだいがいて、事件のとき、その人たちも家にいたと報じられました。

父親を亡くした遺族であり、同時に逮捕された娘の家族でもある場所に、実際に立っている人がいるということです。

どちらの側にも寄れないまま、いちばん静かなところにいます。

気持ちの行き場がない、という言い方がいちばん近い気がしています。

 

家庭裁判所の調査には、数か月かかることが珍しくありません。

その結果が出るころには、このニュースはもう誰の画面にも流れていないはずです。

あの家で何があったのかは、たぶんそのときになってやっと形になります。

 

宙ぶらりんのまま置いておくのは、あまり気持ちのいいものではありません。

それでも、新しいことが出るたびに見方が動くのは、まだ決めつけていないということです。

分からないことを分からないと言えているうちは、何も間違えてはいないはず。

 

亡くなられたお父さんのご冥福を、心からお祈りいたします。